「近頃姫さまはとくにお加減がよろしいとお見受けする。爺は嬉しく思いますぞ」
典薬寮の長たる司は、しわが刻まれた目もとを細めて、桜に笑いかける。桜はあやうく薬湯をこぼしそうになった。
「そ、そう…?」
「お顔の色にはりがでてきております。さては想い人でもできましたかな?」
「っ、じいやっ」
好々爺と笑う爺の顔をまともにみれなくて、桜は薬湯をさっさと飲んで衾を引っ張って顔を隠す。
「ほっほっほ。宮さま、ご自分のお姿をよおく見てごらんなさいませ。平きかけた花のように麗しき乙女が、何れの殿方を想い、瞳を潤ませておいでですぞ」
桜はかあっと頬を染めた。思わず後ろの御簾越しに控える蒼牙を見てしまいそうになる。それを一所懸命押し殺すために桜はブンブンと顔をふる。
「もうっじいや、からかうのはよして。そ、それより…私、はやく出仕しなくては…神殿のあれこれや、謁見の儀、郷の様子も主上や春宮にまかせきりなのだもの」
「まーたお姫は。大丈夫だよ。ちゃーんとみんなやってくれてるから」
「まだ倒れてからひと月もたってないんだ。おとなしくしてろ」
几帳をひょい、とくぐって甘い果物やよい香りをたてる獣肉を高坏を持った九重と悠が入ってくる。
「九重…悠…」
「主上からもくれぐれも無理せず養生されよとのお達しが下っております。御庭散策などはよろしいですが、きちんと薬湯を召しあがり、おやすみの時刻をお守りくださいませ」
てきぱきと行李に薬道具を仕舞いながら爺が言う。桜はしゅんと肩を落として、頷いた。
爺が出て行ってから、桜はぽんっと手を叩く。
「…射場はお庭の中にあるから…」
「だーめっていってんでしょーがっ!! もうっおちびちゃんこの子どうにかしてっ」
いつのまにか室のなかに入ってきた蒼牙はため息をつく。桜はあきれ果てた眼が三つ自分を見ていることに居心地が悪くて、肩を縮こまらせた。
「…わたし、戦うってきめたのよ。だから…」
「まだいうか桜。せめてあと7日は絶対安静! いいな」
「ふりゅ…」
なんだか最近は体の調子がとってもいい。前のように急に眩暈に襲われたり、胸が苦しくなったりすることもなくなった。
本当に不思議なほど。
けれどそれを訴えても、周りのひとは休めと聞かない。
桜は頬をふくらませて寝台にふかく身を沈めた。
そしてぱっちりと目を見開く。ひとが、梁のところにふわふわと浮いている。
「よかった。思ったよりも元気そうだね」
「乙女の部屋に無断に入っておきながら、ナチュラルに天井から話かけないでくれるかなくるりんちょ」
「エクルー…と、レアシス?」
蒼牙が御簾の向こうで苦笑している黒衣の皇帝を見つける。
「失礼します。入ってもよろしいですか桜姫」
「え? もちろんっ」
桜は顔を輝かせる。大切な友人の来訪に、嬉しくて頬が上気した。
エクルーが床に降り立ち、レアシスの隣に立つ。
ふいに、桜は目を瞬かせて九重と悠、蒼牙に向きなおった。形のいい唇が動く前に、九重と悠が動く。
「あ、そうだ。おちびちゃん鍛錬の相手してよ」
「あたしもあたしも。エクルーとレアシス、しばらく桜頼む」
「は? ちょ…」
「おちーびちゃんだいじょうぶ。お庭でちょーっと筆架叉の相手してほしいの」
「縷紅の相手もな」
ずるずるずると蒼牙はその場から強制退場を余儀なくされた。エクルーがぶっと吹き出してレアシスが小さく笑みをこぼす。
桜は二人に向きなおって、顔をほころばせた。
「お会いできて嬉しいです。エクルーさん、レアシス様」
「ん。俺も」
桜の額に口付けてエクルーはにやっと笑った。
「僕もです。ありがとう桜姫」
「それにしても……ずいぶん、顔色がいいね。前は顔色がちょっと白すぎて心配したけど、いまは桃色だ」
「レンから連絡をうけていましたが…。安心しました」
「ご心配かけて、ごめんなさい。もう大丈夫です」
琥珀の瞳に溢れんばかりの生気と強さが宿っている。前にあったときの桜とは何かが決定的に変わった。
レアシスとエクルーは顔を見合せて、笑い合う。それから桜の傍によって、その手を握り締めた。
「今日はね、しばらく会えなくなるから挨拶に来たんだよ」
「………クロキア…のことですか?」
桜はレアシスを見る。エイロネイアのことは兄から聞いていた。近くクーデターが起きるであろうことも。
友人と言うよりも兄に近い好意を持っている二人に対して、桜はたまらなく心配になった。
「ええ。エクルーにお手伝いをしてもらうんです」
「……」
桜は瞳を潤ませる。一瞬、レアシスとエクルーがとてもとても遠くにいってしまうような気がした。
「次に…会えるのはいつになりますか…?」
「春かな」
「春ですね」
「…お願い、があるんですけど…」
「ん。なになに?」
朗らかに聞いてくるエクルーの手と、レアシスの手をぎゅうっと握りしめて、桜は顔をあげた。
「全部、終わったら…アカネさんやイズミさんや…アルさんに会ってから……また、沙羅の花を……見に行きましょう? だから…絶対…還ってきてください」
「……」
レアシスが無言でほほ笑む。その笑みに桜はたまらなくなって、ぼろぼろと泣きだしてしまった。
「あれえ? 桜、泣き虫にもどっちゃったの?」
ぽふぽふと頭を撫でて抱きしめてくれるエクルーにしがみつきながら、桜はしゃくりあげた。
「やくそく…っ…春に…なったら…」
「うん。約束するよ。春になったら、沙羅の花を探しに行こう」
な。レアシス。とエクルーが促す。レアシスは苦笑した。出会った時も一瞬で、カルミノで過ごした日々も少なく、この二年間会える日はとんと少なかったはずなのに。
妹がいたなら、もしこんな感じなんだろうな、とエクルーにこぼしたことがある。それにエクルーが「? 桜は俺の妹だよ」と当然のように返したことをおぼろげに思い出す。
「必ず、還ってきます。桜姫」
「ほん、とに…?」
「ええ。一緒に行きましょうね」
レアシスがす、と小指を出す。桜はぱっと花咲くように笑った。小さな指が絡む。エクルーの指も。
約束が、また一つ増えた。
「……私も闘います。…みんなと、一緒にいたいから」
「特に、蒼牙とね?」
「!! エクルーさんっ」
顔を真っ赤にして桜は叫ぶ。エクルーとレアシスは噴き出した。
「くすくす。……桜姫、もっと長くいたいのですが、そろそろ帰らなければなりません」
「…あ、はい…。あの、会いに来てくださってありがとうございます」
「あったりまえだろー。大事な心の妹なんだから」
エクルーの言葉に、桜がはにかんで笑う。それから、そうっと目を閉じて、胸元に手を置く。
「我を守護せし顥(しろ)の珠。零るる光が二人をお守りしますように。……ご武運をお祈りしています」
「ありがとう桜」
「ありがとうございます」
桜は目を開けて、ふわっと微笑んだ。温かく、柔らかく。花咲き綻ぶように。
「いってらっしゃい」
二人は頷いて、その場から瞬き一つしない間に消えた。強い風が御簾と几帳を揺らした。桜はぎゅ、と手を胸の前で組む。
歯車が動き出す。
皆が立ち上がる。
大切な人を護るために。
故郷へ還ってくるために。
己の居るべき場所を守るために。
風が吹く。これは始まりの風。
蒼牙が御簾を押し上げて入ってくる。桜は目を細めて微笑んだ。
怖くないとは言い切れない。
けれど、最後まで闘って見せる。
そして、守りぬいてみせる。
―――君といる未来のために。
いってきます。
ナチュラルるーちゃ
春はまたもういちど^^