着るべきひとのない衣ほど、
かなしきものはないだろう
+ + + + + + +
雪路は文台から顔を上げ、首の後ろをとんとんと叩いた。そうしている間にも、後ろでは神代分家の当主たちの口が閉じる気配はない。
神代家の中でも〝神代〟の姓を名乗れぬ下輩共だが、半年に一度は顔を合わせなくてはならないのが煩わしい。本家の当主の仕事はごまんとある。分家の祭事、所有の土地について、退魔術士の育成に、異形の様子。それ以外にもこまごまとしたものがいくつか。
当主を継いだのは高校生の頃。才も秀でて術式にかけては百年に一人の逸材と謳われていても、所詮は十代の若者。この機を利用して本家を叩きつぶす考えをもつ家も少なくはなかった。
一、二、三の分家を継ぐ叔父たちが雪路の側近として控えていたからこそ、いまや不動の地位になれたのだと思う。
けれど、心ならず得たものと引き換えに失ったものがあった。
「妾殿は病に倒れたとか。…おお、おお、なんと気分が良い」
「思えば、外の血が本家にはいったということだけでも気味が悪くなったもの。なにやら心がすうっといたしますなあ」
分家の者たちは外聞も気にせず大口をたたき、扇子をひらいてくつくつと笑う。
ちょうどその時。襖が開き、桃色の布地に菜の花が咲き乱れた着物を着た少女が現れる。
年が長じればどれほどの美貌になろうかと思われる顔立ちは未だ愛らしさが勝る。白い顔はほんの少し青ざめていたが、唇には小さな笑みが浮かんでいた。
細い手で襖を閉じて室内に入り、少女は雪路に座礼をしてから分家の方へ顔を向ける。
さっと分家の男たちは少女から目をそむけ、存在などないかのようにふるまった。
慣れたもので、少女の方も淡々と唇を開く。
「お茶を持ってまいりました」
「ご苦労だったね」
文台の書類に目を向けたまま、雪路が桜に声をかける。その傍らにほどよい薫りをたてる蓋椀を置いて、桜はいいえと小さく返した。
それから立ち上がって分家の人間たち一人一人に配り始める。生来おっとりとした少女であるから、その所作は優雅そのもの。兄でさえもよくここまでそつのない少女に育ったものよと思わずにいられないほどだ。
――がちゃんッ。
「ああっすまないね。手元が滑って…」
「…いいえ。粗相をいたしました」
扇子で置かれた蓋椀を倒し、熱い茶が桜の白い甲にかかる。桜は眉ひとつ動かさずに懐から懐紙をとりだして零れた茶をぬぐった。
雪路はため息をつきたくなるのをこらえて、立ち上がった。わざと椀を倒した男を睥睨し、後始末をしている桜の傍らに膝をつく。
「桜、下がりなさい」
「…あ…でも…」
「ここはツネさんにやってもらう」
「そうそう姫さま、おはやくお手を冷やしてまいりませ」
くすくすと忍び笑いが聞こえてくる。小さなそれが複数になればいくら広い部屋といえども、大きな雑音に変わるのだ。
桜は雪路に頭を下げると、その小さな背中にけがらわしい言葉を投げられながら、部屋から出て行った。
雪路は歯がみしたくなるのをこらえる。10歳の幼女に、なんて大人げのない。嫌らしい行いをするのだろう。
それでも自分はこの者たちを護り、導かねばならないと思うと吐き気がする。もっとも疲れるのは、この大きな嫌悪感に襲われるということを、誰にも悟られてはいけないということだ。
弱みを見せればそこをつつかれる。私情に走れば、桜や雪矢に火の粉がふりかかる。
当主となったときからいまでも、弟と妹を護るのが精いっぱいだ。否、それも満足にできていない。特に、桜は。
本来なら、桜も梨花子とともに外界に送り出したかった。神代家の因習になぜ桜が巻き込まれなければならないのだ。
けれど、それは最早不可能なこと。
頭を振って、整えた書類を分家当主たちに叩きつける。分家の者たちはそそくさと退散していった。
雪路も立ち上がって、自室に戻る。なぜだか今日は気が立つ。縁側に座って、柱に寄りかかり、深く息をついた。
◇ ◇
『…くん、雪路くん』
瞼をあげれば夕暮れを背にしてほほ笑む梨花子の姿があった。
『…かあさま』
『こんなところで寝ていては、また熱を出してしまうわ。さあ、お部屋に入りましょう』
そうだ。子供のころから身体が弱くて、よく熱を出していた。
だが雪路は風邪をひくことが嫌いじゃなかった。いつもは雪矢に独占されている大好きな義母をひとりじめにできるからだ。
お兄ちゃんだから、まだ三歳の弟に譲るのは当たり前だ。だからいつも我慢して、平気なふりをしている。父にはすぐにばれてしまうが。
『…つぼみが』
『え?』
梨花子は優しく聞き返す。雪路は少し頬を染めて、形の良い口を開いた。
『梅のつぼみがひらくのをまってるの。あそこ、ほらひらきかけてるでしょう』
『まあっほんとうね』
梨花子のあどけないはしゃぎぶりに、雪路は嬉しくなって顔を輝かせた。
『咲いたら、みんなでお花見するってとうさまと約束したんだ』
『まあ雪都さんが? それは楽しみね』
柔らかくて、温かい手が頬を撫でる。ふんわりふうわり。
心地よさに目を閉じる。目を閉じても、梨花子の柔らかい笑顔が目の前にあるのは手に取るようにわかった。
ひやり。と頬に何かが触れた。
少し冷たい、でも柔らかい温もり。
ゆうるりと目を開けると、黄昏に透けた女性の姿が視えた。
はっと瞠目して身体を固くする。
「…何者だ」
『まあ、こわい顔』
ころころと笑われて、雪路はぽかんと口をあける。
ふわふわ。ふわり。その女(ヒト)は優しく笑みを浮かべて中空にとどまっていた。まるで、舞っているかのように。
『寝顔はとても可愛かったのに』
「!」
ぱっと雪路は頬を染める。異形が傍に居たのに眠りこんでいたなんて。やはり今日はどこか変だ。
『寒いから、起こしてあげようと思ったのよ。でもね、とても気持ちよさそうに眠っているから、どうしようかとおもっていたの』
艶やかな黒髪を風に遊ばせて、また女性はころころと笑った。笑顔といいしぐさといい、義母を彷彿させるものがあって、知らず雪路の肩の力は抜けていた。
「…あなたはどこから来たんですか?」
『え? 私? そうねえ…』
ふわりと雪路の隣に腰をおろして、女性はことりと首をかしげる。
『さっきは…エクルーの傍で寝ていて…ああ、春の薫りを追いかけてきたんだわ』
ぱふっと手をうって無邪気に笑う。雪路は複雑な表情を浮かべた。言っていることがよくわからない。どうしよう。
『そうしたら、ここにいたの。あなたが眠っていたのよ』
「はあ…」
ふと、女性が瞬きをして雪路をのぞきこむ。
『とても疲れた顔をしているわ。ちゃんと食べている? 睡眠は? たっぷりとれてる?』
立て続けに言われて、雪路は思わず言葉を詰まらせてから、噴き出した。女性はきょとんとしている。
「見ず知らずの人間にずいぶんと親切ですね」
『あら。なぜ? あたりまえよ。目の前につらそうな子がいたら、誰だって抱きしめたくなるものだもの』
雪路は女性の言葉にぱちぱちと瞬きを何度も繰り返した。それから、言葉をどう返していいか分からなくて、頬をかく。
言うべき言葉が見つからないなんて、久しぶりだ。
「……あなたも寒そうですよ」
『え? そう? うーん……確かにあなたを見ていたら寒いかも』
雪路はまた噴き出した。なんだろう。話しをしていくうちにどんどん心の中の澱がとろけていくような感覚だ。
部屋の中に戻り、羽織を一枚はおる。それから。
雪路は部屋の隅にある行李を自分のもとへひきよせた。ふわりと女性が興味心身にのぞきこむ。
『これは…まあ、綺麗な着物ね。藤の花の刺繍が素晴らしいわ』
「義母にあげようと思って求めた品なんですが……、もう渡すことはないので、どうぞこれを羽織ってください」
そうして差し出した着物を、女性は少し眉をひそめて見つめた。
『渡せない…ってどうして?』
「……もう会えないからです」
『これは…聞いてもいいのかしら…その、…お母様はお亡くなりになってしまったの?』
「いえ…」
だけどもう二度と会うことはない。と結んで雪路はほほ笑んだ。女性は哀しそうにうっすらと涙を浮かべて柔らかく雪路を抱きしめる。
突然のことに、雪路は固まった。
『お母様に、会いたいのね…』
「え…」
『とても、とても辛くて、痛いおもいをしてしまったのね。…お母様に会ってはいけないと思っているの?』
ぎくりと身体が強張った。胸の奥に隠していたものがつきんと痛む。
会えるわけがない。自分は義母を追い出した。亡き父の妾として扱っている。そんなこと、許されるわけがないのだ。
「僕は…」
『いけないなんてことはないわ。子が母を慕うのは自然なことよ』
身体を放し、女性はにっこりと菩薩を思わせる笑みを浮かべた。そして手を伸ばしふたたび雪路の頬を撫でる。
『これは、お気持ちだけ頂戴するわ。あなたはもう寒くないでしょう?』
「…」
『……すぐには無理でも、きっと会える日がくるわ。それを望んでいればね。お母様もそう願っていれば、必ず』
「そう…でしょうか…」
頼りなげに雪路がきくと女性が深く頷く。そして、さあ還らなきゃ、とふわんと浮かび上がった。
「還り方…わかるんですか?」
『ええ。それじゃあ…また…お名前を聞いてもいいかしら?』
柔らかく問われて、雪路は自然に口を開いた。
「雪路…です」
『私はサクヤ。それじゃあまた会いましょう。雪路さん』
そうしてサクヤは夕闇に融けるように消えた。
雪路は、いつのまにか頬が濡れてることに気づく。
腕の中の着物を、強く握りしめた。
そうだろうか。
本当に、いつか叶う日が。
また柔らかな笑顔に会える日が、きっと。
fin.
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はい原作ver.でゆっきーとサクヤさんでした。ほんとに、雪路…辛い思いさせちゃってるね。だけど、たくさん笑える日がきっと来るから、それを信じて歩んでいこう。
ヴァルさん、サクヤさんを貸してくださってありがとうございました^^v
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