蒼き海の揺り籠よ。
青き空の子守唄よ。
広く大地に御手をひろげ、
たなびく野に吐息を絡め、
愛しき吾子に、歌を聞かせよ。
(皇族文書第○之巻××章:皇女狭弓良比女の御歌より)
祭事や宴に使われる蓬莱殿は、かつてないほどの賑わいを見せていた。今宵は先の帝、孝徳院の五十の御賀にて披露する舞楽の試楽(※リハーサル)が行われる。
迦陵頻、胡蝶、五色の舞姫、とさまざまな演目があるが、やはり最も注目を集めているのは、じきに国を担う重臣になっていく若い青年2人が舞い人に選ばれる、〝青海波〟であろう。
此度この舞手に選ばれたのは海神家の蒼牙、穂村家の新である。
孝徳院の宮では宮廷女官や皇族の子女たちは見ることが叶わぬ催しであるから、朝から内裏中の女官が浮足立っていた。
「まあ、宮さまのお席の支度はまだ整えられてないの」
「申し訳ありません。人手が足りないもので、すぐに整えますれば、そちらにてお待ちください」
吉野は紅く顔を染めてぺこぺこと頭を下げる采女に深いため息を返して、ぼんやりと御簾ちかくで脇息にもたれかかっている桜を見た。
「宮さま、そのように端近では、殿方にお顔が見られてしまいますよ」
「……」
桜の顔は人形のように動かない。先日の事件の衝撃が彼女の心を完全に麻痺させてしまった。
もちろん膳は食べ、薬湯も飲んでいる。ただ声も出さず、笑いもせず、泣きもせず、ただぼんやりと遠くを見つめているのだ。
悠や九重がいるときは少し緩和されるものの、今宵は二人とも試楽の手伝いに回り、桜のもとには来ない。乳母の吉野と見習いのイヨとキヨのみだ。
ぬけがらのようになってしまった桜の様子は、不謹慎にも透明な美しさがあった。
(このまま…鬼に魅入られてさらわれてしまうのでは…)
乳母はぞくりと身体を震わせた。異形のものに対しては自分は何の力にもならない。盾になることはできるだろうが、それではだめだ。
人がいれかわりたちかわりせわしげに動きまわり、賑やかなこの場所でさえも不安でたまらない。
そのとき、軽やかな足音がふたつ乳母に近づいてきた。
「よしのさま。ひめさまにおきゃくさまがきたの。わだつみのたろうぎみ」
「よしのさま。ひめさまにごあいさつしたいって。たろうぎみはとてもしんぱいしてるみたい」
イヨとキヨの声に、桜がほんの少し反応する。
「……そうが…くん……?」
◇ ◇ ◇
「女一の宮さまにはごきげんうるわしくぞんじたてまつります。にわかの謁見をお許しください。宴ののちにご挨拶をする暇がありませんでしたので…」
御簾の向こうの様子がわからないことに、桜は目を伏せた。几帳をたてて、二人の間には吉野が桜の代わりに蒼牙と話す。
これが、成人した、という証だ。顔を合わすこともできないし、声もかわせない。
どうして、あのとき一時の迷いで護衛の任から蒼牙をおろしてしまったのだろう。
「いいえ。宮さまも喜んでおられます。海神の若君、とてもお衣装が似合っておりますよ」
蒼牙は、御簾向こうの吉野に、苦笑いを返した。衣装は優美で、それでいて重い。さっさと舞って脱いでしまいたいのが本音だ。
「ありがとうございます。…先だって、姫宮さまが物の怪のさわりにあったと聞き及んでおります。何かご不安なことがありましたら、いつでもご相談してくださいませ」
少しの間見ない間にすっかりと幼さがとれた青年の様子に、吉野は微笑ましく思うと同時に、蒼牙が護衛に戻ったなら姫も物の怪に襲われることはないかもしれない、と考えた。
悠と九重はよくやってくれている。だが、蒼牙の能力は数段上だ。どれだけ心強いことだろう。
しかし、自分たちが言いだして、二人を無理やり引き離したのだ。
なんて調子の良いことを、と吉野は自分を律した。
「……では、これにて失礼つかまつります」
玲瓏な声が御簾の内に響いてすぐに、かたんと何かが倒れる音がした。吉野は几帳のなかをのぞいて、はっと目を瞠る。脇息を倒して、桜が前かがみになっていた。肩を震わせて、いまにも零れそうなほどの涙をたたえて。
「宮さま…?」
「…て」
「え?」
「まっ、て………っ!」
その悲痛な声音はかすかな音にしかならなかったが、しっかりと蒼牙の耳にも届いた。顔をあげて、御簾をのりこえたいおもいをおさえつけて、唇を噛みしめる。
一方、吉野は胸が詰まる心地で桜を見ていた。
(……宮さまが少しでも気をしっかりとお持ちになれるのであれば…)
吉野はイヨとキヨを呼んで几帳を動かした。桜が戸惑ったように吉野を見上げる。
「…しばしの間だけでございますが…御簾の近くにお寄りあそばしませ。わたくしたちは席をはずします」
桜ははじかれたように立ちあがって、おぼつかなげに裾を滑らせて御簾の端近に座った。その背中を隠すように几帳を置いて、吉野はトヨとキヨを連れて席をはずす。目立たぬように明かりを消して。
「……ひさしぶり」
御簾の向こうで蒼牙が優しく笑った。こちらもできるだけ御簾に近く座っている。
「…っ」
静かな声に、おさえていた想いがふくれあがる。喉を詰まらせて、桜はぼろぼろと涙をこぼした。
「そ…がく…、っ…」
「無理に話さなくていいよ」
ぶんぶんと首を振って、桜は御簾に白い手をあてた。蒼牙はぼんやりと見える小さな手の輪郭に熱い感情が噴き上がりそうになるのをこらえた。
そうっと手を伸ばし、重ねるように御簾に手を置く。ほのかに温かい。
伝えたい。何か話したい。でもいったい何を。
焦る桜の様子が伝わったのか、蒼牙は瞑目してから小さく唇を開く。
「……直(ただ)に逢いて、見てばのみこそ玉きはる。命に向かう我(あ)が恋やまめ
(
直に逢うことができたなら、君の顔を直接見ることができたなら、命がけで恋している私の想いもやわらぐのに※万葉集より)」
桜は大きく眼を見開いた。御簾の向こうからはこちらがよく見えないが、こちらからは蒼牙の顔が表情が、仕草が、よくわかる。
蒼牙の黒曜石の瞳が、真っ直ぐ桜を見つめていた。あふれ出る甘い想いに凍っていた心が融かされるようだ。
いそいで返歌をしようとした桜の耳に、試楽の始まりを告げる柏木が鳴り響く。
蒼牙はつ、と視線を外して懐から小さな紙を取り出した。御簾の下からそれが桜のもとへ差し出される。
「…これ、あとでひとりになったときにあけて」
「…っ」
その言葉を残して、蒼牙は一礼をし、衣装を鮮やかにさばきながらその場を辞した。渡された紙をぎゅうっと握りしめる。
それは淡い水色の紙で、蝶のかたちを象っていた。
◇ ◇
宴が終わった後、桜はすぐに部屋に下がって、ひと払いをさせた。寝殿で一人、懐にしまっていた紙を取り出して、そうっと開く。
途端にしゃらんと水が舞う音が響いた。
ぱっと水の玉が桜の目の前で飛散する。玉はみるみるうちに蝶になり、桜のまわりを舞い始めた。
桜は久方ぶりの笑みを浮かべ、ふと紙に何か入っていることに気づく。完全に紙を開いて、桜はあっと声を漏らした。
出てきたのは穏やかな翠をたたえた細い輪。これを桜は知っていた。二年前、遠出をしたときに、玉造師から蒼牙が買っていたものだ。
『異国の風習で、夫婦になるふたりがつけるんだってさ』
『わあ…。蒼牙くん、どなたにあげるんですか?』
『……まだ決めてない。綺麗だったから買っただけ』
『ええー?』
『贈る奴が決まったら教えるって』
『ほんとうに?』
『嘘はいわないよ。ゆびきりげんまん』
『…! はいっ』
そうしてからめた小指のぬくもりを、思いだす。
どのくらいそれを見つめていただろう。桜はふと風の音で我に帰った。そして、ゆっくりと立ち上がる。
指輪を紙に包んで懐に納め、衣架から黒の絹布をとって羽織った。裏に続く戸に手をかけて、しばし逡巡して振り返る。幾重もの几帳と御簾の向こうにある格子扉の前で、灯りをともして待っている吉野の後姿がぼんやりみえた。
きゅ、と唇を引き結ぶ。そして、文台に活けてあった雪椿の葉を一枚とった。
ふうっと息を吹きかける。白い靄がふくれあがった。それを確かめて、桜は戸の向こうに身体を滑らせた。
吉野のうなじがひやりと冷たくなる。
はっと顔をあげて、おろされた御簾を越え、何枚もの几帳をはねのけ、桜がとじこもっていた格子扉をあける。
吉野は息をひきつらせた。おぞましい形相をした巨大な物の怪が、血走った眼で吉野を睨む。
「…ひっ!! 誰か誰か…!! 姫兵はおらぬか!! 宮さまが物の怪に――!!!」
宴の喧噪がやっとおさまった内裏に、戦慄のどよめきが走った。
fin.
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