人気のない廊下に靴音だけが響く。
桜はやっと取り戻した静けさに息をついた。私室へ続く廊をひたすらつき進む蒼牙の背中に、桜は嘆息混じりで語りかける。
「あの方のことですが…」
か細げな声に、蒼牙は歩みを緩めて、視線のみ桜に向けた。
「…………幼い頃、医療院で遊んでいただいた方です」
「……シュアラ人なの?」
「いえ、そこまでは。医療院からもいつの間にかいなくなってしまいましたので…。ここに何のために来たのかも、存じ上げません」
さきほどは浮かれてしまったけれど、冷静に考えれば、昔の感傷に浸っている時間など、ない。陽気な気候にほだされたのか。まさか。
桜は息をつめて、首を振った。
『星の王子様』
そうあのひとを呼んでいたころ。母も父も揃っていたころ。無邪気に野を駆けまわっていた、あの日々。
無知で愚かで、なんの力もなかった幼い自分の残像が、瞼の裏で浮かんで消える。
「…もう、会うことはないでしょうが」
ああだって自分は変わってしまった。自分を偽ることを覚えてしまった。おそれもせずに手を伸ばせた頃にはきっと、戻れない。
だったらあの人のなかにある、無垢なままの自分を、汚したくない。
「……だから衛士長、心配なさらないで。私は、きちんとお役目を果たします」
「あのね…俺が言いたいのは……」
「あ、おっかえりー二人とも」
間延びした声とともに、客室の扉が開かれる。二人を迎えた円は、鋭い眼光をとばしてくる蒼牙に、首をかしげた。
「おかえり。メイドさんがお茶いれてってくれたんだ。それのんで落ち着いたら……」
不意に円の表情が改まる。廊下に佇んだままの二人の傍に足早に駆け寄ると、一言理を淹れてから、桜の腕をとった。
「…これ、サロンでやられたの?」
「え?」
そう言われて視線を向けると、左袖に血が滲んでいた。そのまま引っ張られて室内に戻ると、長椅子に座らせられて袖をめくられる。手の甲に、何か、細く鋭いもので傷つけられたような傷ができていた。蒼牙が眉をひそめる。
傷口が不自然に紫色になっている様を、真剣に眺めていた円が口を開く。
「……クロキアの神官がいたのか?」
「…でも、私には近づいていません」
「……爪だ」
蒼牙が苦々しく呟いて、舌打ちした。
「あいつの式だ。三つ目の鳥のような異形が襲ってきたろ」
桜は、あっと声をあげた。男達の眼の色が変わる寸前、大きな翼をもつ異形が、二人を襲った。蒼牙が桜を背に庇っていたが、身をかばおうとした桜のてのひらに傷をつけるなど簡単なことだったのだ。
「…毒爪。相も変わらず、趣味の悪いこった」
「でも、私の身体…毒は…ききません」
桜は毒や呪詛をとりこんでも、時間をかけて身体のなかで浄化できる体質を持っている。兄が泉癒と名付けたその能力は、何千倍の痛みと苦しみと引き換えに、身体が吸い取った禍を消し去るものだ。
未だぼんやりとしている桜の袖をまくりながら円はため息をついた。消毒液を浸した綿布を傷口に当てる。
「…いや、この三日間身体をうまく動かなくさせることが目的だったんだろう。挨拶代りに脅しってとこかな。……ちび衛士さんはなにやってたんだよ」
「……」
円が厳しい声音で叱咤する。蒼牙が何も言い返せずにいると、桜が彼を庇うように身を起こした。
「衛士長はわるくありません。わたしの不注意が招いたことです」
「…桜ちゃん。そういうふうに、君が庇えば庇うほど、蒼牙もやりきれないと思うぜ。今回の事は、巫女守でありながら巫女姫を一人にさせたこいつの責が大きい」
桜は真っ青になって、円の膝に手をついた。
「…お願いです。帝には…、兄には、言わないでください。先ごろ、衛士長は咎を受けたばかりです」
「…桜、もういい。本当の事だし、責はきちんとおってしかるべきなんだから」
「でも…」
辛そうに顔をゆがめる桜に、蒼牙は首をふる。円は肩をすくめた。
「いわねーよ。俺、告げ口キライだし。俺もふらふらしてたから、悪かったな。ただ、二度はないぞ。蒼牙」
「分かった」
素直に頷いた蒼牙の頭と、顔をわずかに明るくさせた桜の頭を交互に撫でてやってから、円は桜のまくっていた袖を元に戻した。
「さて? 桜ちゃん。どうして、蒼牙を待たずに一人でサロンなんかに飛び込んだんだ?」
桜は細い肩を強張らせた。そのまま俯くと、ヴェールが顔をおおい隠してしまう。
「普段の君なら有り得ないことだ。何があった?」
「……」
ぎゅう、と唇を噛んで、桜はしばらく黙りこくった。辛抱強く円と蒼牙が待ち続けると、やがて諦めたかのように息をついて、囁くようにしゃべり始めた。
「蓮さまを、追いかけたからです」
その言葉に、円はめんくらったように固まった。沈黙を破ったのは、桜の隣に座っていた蒼牙だった。
「……何言ってんだよ」
「………確かに、見たんです」
顔を上げて、必死に言い募っても、蒼牙は取り合おうとしない。桜の肩を掴んで、軽く揺さぶった。
「蓮はいない。死んだんだ。わかってるだろ」
「……、でも、でも…っ」
「まだ気に病んでんの? 華音との約束のこと」
「……それは…」
琥珀の瞳が揺らぐ。だが、涙がこぼれることはない。いっそ泣いてくれた方がマシだった。そうすれば、慰められるのに。
蒼牙は歯がみしながら、きつい口調で続けた。
「別に桜が華音の言葉を言わなかったから、蓮がいなくなったんじゃない。あいつは勝手に消えたんだよ。俺達なんか大事じゃなかったんだ」
「蒼牙くん」
震えながらも、桜はしっかりと非難の色を混ぜて蒼牙を呼んだ。だが、蒼牙はひるみもせずに、きっぱりと言い放った。
「俺は忘れる。だから、桜も忘れろ」
「うそつき」
普段からは考えられないほど敏捷な動きで立ち上がってそう叫び、桜は蒼牙を睨み据えた。
蒼牙は一瞬あっけにとられてから、眉を吊り上げてつられて立ち上がる。
「どういう意味だよ」
「忘れるなんて、できないくせに。誰よりも、きにしてるくせにっ」
「な、」
一歩距離を縮めて、桜は常になく声を荒げた。
「大事にされていなかったなんて、どうして言えるの…っ。たったひとりの、あなたの師匠じゃないですか!」
「あんな奴、師匠なんかじゃない!」
思わず怒号すれば、桜の目がこれ以上ないほど見開かれた。表情がこわばって、深く傷つけたことがうかがえる。
(…違う)
桜は、いまの蒼牙の表情を映しているのだ。そう気づいてしまえば、もう桜の顔を見ていられなかった。
「…頭冷やしてくる」
低く呟いて、自分にあてがわれた部屋に向かった。乱暴に扉が閉まる音を聴きながら、桜は長椅子の上にへたりこむ。
口をはさまなかった円は、ため息をつきながら立ち上がる。桜の肩に襲をはおらせて、穏やかに話しかけた。
「少し休もう。そうしてから、あとで俺にくわしく聞かせてくれ」
「はい…」
項垂れたまま、桜は素直にうなずいた。そしてのろのろと立ち上がると、一番上等な扉の向こうに消えていく。
円はやれやれと首を振ってから、テーブルに置き去りにされたままのトレイを見た。
「……メゲネ・コショネか」
懐かしいな。と呟いて、肩をすくめた。
fin.
なにこれかわいい
病室…