隼人がかえってきますた。
太古の昔、この国を創った高天大御神と黄泉津(よもつ)大御神の間に数多く産んだ神達の末子に、双子の焔神が生まれた。
貴い陽女神と、月彦神の末の弟にあたる双神はそれぞれ、迦倶突智神(弟)と禍遇毘古神(兄)と呼ばれる。しかし、この二柱の神を産んだ後、母神は力を使い果たして死んでしまった。
母神が死んだのは、先に出てきた弟、迦倶突智が産道を焼いたためであると、父なる大御神はすぐこの子供を殺した。母神のお腹を裂いて出てきた弟は殺さず手元に置いた。 しかし、母神を殺したのは、胎に最もいた禍遇毘古であった。かの神は産道やほとを焼き尽くし、最後は胎を突き破り生まれたのである。むしろ迦倶突智は母の負担を減らすために兄を引っ張りだそうと先に生まれたのだ。兄を鎮められるのは迦倶突智のみ。父神は妻を助ける息子を殺し、よりによって神殺しの忌み火を身に宿す息子を残してしまったのである。
母神はこの仕打ちを憎んだが、黄泉の国へ謝罪に訪れた夫を許し、知恵を授けた。
「我が那背の命、あなたが黄泉のけがれを拭うとき、一柱の尊い海神命をおうみになるでしょう。天照らす陽女神、陽女の政を助ける月彦神、そして、姉神と兄神を癒し、護る神。それが海神命です。彼がいる限り、地上の忌み火が暴れることはないでしょう」
けれど。子を殺した貴方の罪は消えない。父に殺された迦倶突智の嘆きも。
無情に言い渡す女神の横には、生まれてすぐに父に屠られた迦倶突智がいた。
許してくれと大きな岩を隔てた向こう側で泣く父神を痛ましく思った彼は、こう願い出た。
「私はもう死んだ身。神殺しの焔は私が持っていることにいたしましょう。そうすれば、兄上は姉神さまは兄神さま達をお助けできるはず」
父神も禍遇毘古神も、迦倶突智の優しい心に感謝しながらその通りにした。
その禍遇毘古神の末裔が、陽炎である。
※※※
「……なっとく、できない」
「なにが?」
しかめっつらの兄を、新はのんびり薬湯をすすりながら返した。
「悪いのは兄の禍遇毘古神だ。迦倶突智にとってはにくい相手のはずだ」
冊子から顔をあげて、橘は新を睨んだ。ああ、だから神話を読むのはやめておけって言ったのに。
「兄ちゃんが好きだったんだよ」
「理解できない」
「それは兄ちゃんが兄ちゃんだからだよ」
おれは弟だから、それが解る。薬湯を飲み干して、新は兄の隣の寝台に潜り込んだ。
「……そうか。迦倶突智はてめーみたいな阿呆だったんだな。だから子孫がどうなるかなんて考える前にめんどくせーもの背負ったんだ」
びしり、と数珠が巻かれた左腕を指されて、新は苦笑した。そうなのだ。どこまで合っているかあやふやな神話はめでたしめでたしで終わっているが、現在生きている子孫の自分達にははた迷惑な呪いを代々受け継ぐことになってしまった。
新は燭台にそっと左腕を近付ける。火に触れるか触れないかぎりぎりのところで止めると、やがて薄ぼんやりと鎖のような黒い痣が現れた。
「こうして封印できてんだから、平気だよ。それよりも、俺は兄ちゃんが顔隠すようになるのが、やだなあ」
やだなあ。ともう一度こぼして新は橘の顔をじっと見上げる。自分と同じ、少し平たい鼻に、垂れ目がちの琥珀の瞳。
「……しようがねえだろ。掟なんだから」
「おれは、こっちの掟のほうが理解できない」
「それはてめーが弟だからだ」
ふんっと鼻をならして橘はそっぽを向いてしまう。新はその耳を引っ張った。
「やだよ。兄ちゃん。今日で最後なんだから、顔ちゃんとみせてよ」
「うっせえなあ……四六時中つけるわけじゃねんだからぎゃんぎゃんいうなよ」
少しだけ、橘の肩が震えている。新はふうと息をついて、暗い天井を仰いだ。
『――誉(ほまれ)さまと、柾(まさき)さまは亡くなった』
痩せこけて、ぼろぼろの装束を身に纏った傅役が医療所の庭先に現れたのは夕暮れ時だった。円と蹴鞠遊びをしていた新と橘は、我先にと傅役に飛びついた。
傅役の隼人はまず、二人で都に無事入れたことを褒め、窮地を救った円に礼を述べた。久方ぶりの再会だからと円がその場を離れると、隼人は掠れ声に近い声で言ったのだ。
父親と伯父が、亡くなったと。先に亡くなったのは父親。伯父は片腕を喰われながらも、焙烙玉と術を融合させて自分と共に妖異達を燃やしつくした。遺体は、髪一筋さえ残らなかった。
『……これを』
隼人が懐から出したのは、翠玉の数珠と、顔半分を覆い隠す黒い面だった。数珠は父がつけていたもの。面は伯父がつけていたもの。
火薬の匂いがつんと鼻をさす。陽炎の者は、遺体を遺さない。灰の一つも。仲間が死んだら、近くに居るものがソレを焼く。これも、古い古い掟。
『……頭領は、どうすんだ? それに、朱雀の大臣(おとど)がどっちもいなくなったら、宮廷とつながりがなくなる』
実感が湧かなかったからかもしれない。涙を必死に我慢する兄の横で、新はからからに乾いた喉を動かした。
ああ、蝉の声が、五月蠅い。
『お前達が育つまでは焔(ほむら)五人衆が支える。朱雀軍大将は……朱華(はねず)の一族の預かりになる』
そうかと新は頷いた。護廷十臣将は本来、海神家のように一つの一族が頂くものだが、朱雀と白虎だけは違う。朱雀は山伏。白虎は忍び。それぞれ多数の一族が集まって成り立っている。だから、他の軍とは大分編制も異なっているのだ。
『……宮廷とのつながりは、梨壺がある。お前達、まだ挨拶していないんだってな?』
橘を見ると、俯いたままだ。新は代わりにこくりと頷く。
叔母のところで、侍従見習い。そして当初の予定通り、この都を拠点として情報を集めたり、任務を遂行したりする。何もなくなったわけじゃない。何も、見えなくなったわけじゃない。それでも。
『……隼人、かえってきてくれて、ありがと』
袖で隼人の顔についた泥をぬぐって、新は言った。そうすると、隼人は一瞬顔をゆがめ、二人を抱きしめた。
『……すまない』
俺だけが帰って来て。お前達の父親と伯父を、守れなくて。
口には出さないが、隼人の思うところは何となく察しがついた。隼人には、主を追って、自刃する道もあったのだ。でも、父達が止めたのだろう。
新と橘が、二人だけで歩いて行くのは、あまりにも忍びないと。
いつでも独りになってもいいようにと、あらゆることを叩きこんで、親子らしい触れあいも無いに等しかったのに。導として、隼人を遺してくれた。
なんだか、なあ。新は小さく笑ってしまった。橘は不思議そうな顔で自分を見ている。父親が死んで、笑う息子なんて、きっと、どこかおかしい。
でも、たぶん初めて父親が、伯父が、自分達にかけてくれていた愛情を、受け取ることが出来たのだと思う。
『……あかとんぼ、一緒に、みたかった、なあ』
翠玉の数珠を拾って、今までつけていた自分の数珠を外す。新たに翠玉の数珠を巻きなおすと、それが一瞬赤く瞬いた。
背後から、橘の押し殺した泣き声が響く。それをかき消すように蝉の声が。
ああ、頼むから。隠さないでよ。
自分は数珠を継いで、兄は、面を継ぐ。無邪気な兄弟には、戻れない。数珠で封じるのは神殺しの忌み火による甚大な法力。面をつけるのは、神殺しの忌み火の封印が解けた時、真っ先に弟を殺すのが、兄の役目だから情を移さないように。
――陽炎の双子は、兄が先に逝ってはならない。もし兄が病にでもかかれば、弟は真っ先に殺す。それは絶対に違えてはいけない掟。
父と伯父はその順番を守った。今度は、自分達の番。
(兄ちゃんは、優しいから)
きっと、自分を遠ざけようとする。でも、やっぱり心配して、こっそり守りに来てしまう。だから、距離を取るのは自分の方。
「兄ちゃん、おれ、簡単には死なないから」
「ったりめーだ。ばーか」
眠ったと思い込んでいた相手から間髪いれずに返事がかえってきて、新は笑った。