「幸せになるよ」
そう言われた時、感じたのは寂しさではなく奇妙なことに安堵感だった。
そして、安堵感が過ぎ去った後は、大きな脱力感が身体にのしかかった。
菖蒲月(五月)。今上帝への女御入内が内定し、これを機に宮内改革が始まった。
現在の宮廷にいる女官、侍従、及び姫兵を一斉解雇し、再編成する為だ。
これは、従来、皇族府の縁者や上級貴族で固められていた宮内を開き、中下級貴族、武家の子女子息を受け入れる体制に変え、新しい宮中のあり方を示すものであった。
さすがに高位の女官や侍従は、再雇用の試験免除の書類を貰えるが、解雇されることは免れない。
雪路曰く、新しい宮内の有り方に、ついていけるかどうか考えてからもう一度志願し直せということだ。
案の定皇族府から誹謗中傷の嵐だが、雪路は飄々とかわしていく。帝位についたばかりのころは、皇族府の権威に恐々とし、潰されないようにするので精いっぱいだが、いま彼は立派に成人し、余裕を持てるようになった。
加えて、左大臣の娘をただひとりの后として女御に迎えたのは、上級貴族とはいえど、自身の後見を民間に委ねたと公言したようなものである。
もうすでに、雪路は荒廃しつつある皇族府には依存せず、民間に開かれた皇室を目指し、歩み始めたのだ。
生への強い意志と、自ら選んだ后とともに。
自分が使っていた局の一室で、あきらは小さい風呂敷を抱えてぐるりと視線を巡らせた。
自分に宛がわれた仕事は、すべて終わらせて長押に仕舞ってある。
御所暮らしで買いそろえた袿や袴は、ありったけの(足りなくなった際には友人から譲り受けたものの)衣桁にかけて、そのままにしておいた。
そんなに贅沢をしたつもりはないのだが、部屋いっぱいに広がった袿の量はとてつもなく多い。
(それだけ、長い間ここにいたってことか…)
一応実家通いだったけれど、御所の務めというのはおっとりしているようで忙しく、段々とこの部屋で寝起きをするのが当たり前になっていた。
でも、もうこの部屋ともお別れだ。
あきらは、畳の上にほっぽっておいた書類をとりあげる。今回の一斉解雇の説明が羅列した紙と、再雇用試験免除の符を、一瞬間を置いてから思い切り破いた。
細かくちぎって屑籠にいれて、必要最低限のものだけ入った風呂敷を抱える。
ふいに壁際に黒の色彩が生じて、形を結ぶ。視界の端に赤金色の髪をとらえて、あきらは苦笑した。
壁に背中を預け、腕を組んだ少年が立っている。見ているだけで暗くなりそうな黒装束を身にまとい、おまけに顔半分を覆う鴉の面は見慣れたあきらは別として、不気味さを際立たせる。
それにしてもよくもまあここまで徹底して自分の容姿を隠したがるものだ。
そっくりの弟と間違えられるのを厭うてのことだと聞いているが、ここまでしなくてもいいだろうに。顔は同じと言っても内面から醸し出されるもので顔貌はずいぶんと様変わりするものだ。
「本当にやめんだな。ババ…だっ」
丁度文机の上にあった矢立てを投げつければ見事に面に命中する。そのまま橘は顔を抑えてうずくまった。
ふん、と息を漏らしてあきらは立ち上がり、裾を払う。
「あんたもでかくなったしね。口にせいぜい気をつけて、帝を守るのよ」
橘が首肯するのを確かめてから、あきらは艶やかに微笑んだ。
あきらが朱雀と白虎、そして麟鱗で編成されている皇宮侍衛軍の次将に異例抜擢されたのは、今上の衛士筆頭たる橘が弱年だったところが大きい。思えば天良華音が桜の特別護衛官に選ばれていたのも、あきらの弟が弱年だからという同じ理由からだった。
もう来年になれば、橘はあきらが侍衛警吏になった時の年齢に追いつく。腕も立つし頭も回る。自分が教えられることはすべて教えた。性格に癖はあるが、同じ御庭番の時雨達と力を合わせてどうにかやっていけるだろう。
局を出て廊を進めば、あちこちの侍女や衛士、姫兵が頭を下げる。それに応えるように手を振りながら、車寄せに向かった。そこはもう輿や牛車でごったがえして、お祭り騒ぎだ。
厩に繋がれている愛馬があきらに気付いて耳をぴくりと動かす。
式台で白足袋から皮足袋に履き替えて、さあ帰ろうかと腰を上げると、唐突に斜め下から薄紅の花が差し出された。
虚をつかれて、あきらが視線をさげると、栗色の髪を揺らした少女が立っている。
「…白露? どうしたの、こんな人が多い所に」
「主さまから、お届け者です」
黒眼がちの瞳にうっすら涙の膜がはっている。あきらは苦笑を洩らした。
「やーだ。一生の別れってわけじゃないのに。泣かないの。海神に来ればいつでも会えるわよ」
「…でも、御所で一緒にお仕事は、できなくなるでしょう?」
だからとても寂しいのです。そうやって細い肩を落とした鷹の化身をなだめすかす。
この子との付き合いは、15か16の頃からだったか。そう考えると、また感慨深い。
「ありがとう、白露」
大きく色鮮やかな花を咲かせている天竺牡丹の香りを聞きながら、茎に結ばれた文に目を通す。
ひとつ息をついて、紙裏に筆を走らす。様子を窺っている白露に苦笑をもって渡した。
「薬の時間に逃げ回らないよう、きちんと見張ってあげてね。白露」
「はい。長の御勤め、御苦労さまでした。晶の尚侍」
深く頭を下げた白露に礼を返す。
そして、舎人が連れてきた愛馬の瑞葉に跨り、表門に向った。後ろでいつまでも白露が見送っていてくれることには気づいていたが、一度も振り返ることなくあきらは御所を後にしたのだった。
御所は主上を守るために幾重にも宮門が張り巡らされている。後宮である内裏の内郭を囲む門は十ニ門あり、内重(うちのえ)門と呼ばれ、外郭を囲む宮門がやはり十二門、中重門とし途方もない大きさである。これにさらに大内裏を囲む十四門が存在するのだから、覚えるのも一苦労である。地方からの官吏が途方に暮れて迷うのも、無理ない話だ。
人のごったがえす朱雀門を抜ければ、そこはもう京の町。幅約100Mの大路には市や出店が開かれ、にぎやかに生活が営まれている。
手綱を緩めて、ぱっかぱっかとのんびり大路を進みつつ、凝った肩を鳴らした。
なんせ、春先から騒ぎが続いて碌に休んだためしがないのだ。帰ったら寝台に直行間違いなしである。
雲ひとつない空を見上げて、いまは異国にいる親友を思った。
(怒るかなあ。勝手にやめるって決めたこと)
カルミノから桜達が帰ってきてから、すぐに彼の国へ正式な勅使をたてる必要があった。
勅使には皇族のいずれかの男子が選ばれるのが通例だが、皇族府は異国嫌いの先駆けである。なかなか本決まりがつかないのを一喝し、自ら立候補した女性がいた。それが、五つ瀬(いつせ)斎院、雪音姫である。そして傍付きの一人として選ばれたのが雅萌だった。
シュアラには正式な女性外交官は一人もいないが、今回は特例として聡明な彼女達が選ばれたのだ。これもまた、新しいシュアラの形であろうと雪路が満足げだったのを思い出す。
彼女ならうまくやっているだろう。心配することもない。